よみがえる鎮守の森

 私はまちづくりのコンサルタントをしていたが、わが町のことは知らなかった。
12年前稼ぎを終えてわが町と向き合った。
 京都市の南にある向日市(むこうし)は向日神社(むこうじんじゃ)の鳥居前町として生まれ、地域の中心として栄えたが、戦後ベッドタウンになって寂れた。 子どものころに遊んだ向日神社の鎮守の森(3万m²)は赤松と桜の明るい森だった。 小学校の校舎から参道が見え、授業で参道の落葉掃除をして本殿や舞楽殿を写生した。 祭りの日は学校が休みになり、露店が並び近郷からの見物客で賑わった。
 大相撲の興行があり先々代の若乃花がやってくるなど話題の中心で、神社は地域のシンボルだった。 鳥居前の商店街は近郷からの買い物客で賑わい旅館もあり、役場も警察署も銀行も中学校もあった。
半世紀が過ぎて暗い森になり、桜の名所だった参道にも竹や笹が侵入し、近くにある競輪場の駐車場になっていた。 暗い森にカラスに餌付けするおじいさんがいて、声をかけると20羽ほどが走り寄った。

参道から寂れた校舎が見えた

参道から寂れた校舎が見えた

参道は競輪場の駐車場と化していた

参道は競輪場の駐車場と化していた

 神社のルーツの元稲荷古墳(もといなりこふん)も竹や木で覆われ、「ちかん注意」の看板が立っていた。 「あんな町にはなりたくない」と知人からもいわれた。
 向日神社は私の誇りだったしわが町も誇りだった。 子どものころに戻したいとの思いから、鎮守の森の植生を調べ土地の所有者を調べた。神社と市の公園と京都府の緑地になっていた。 整備計画をつくって所有者に会ったが予算がないといわれた。仕方がないので参道の掃除からはじめた。 私は植木職人から設計に進み、まちづくりに係わってきた。 竹や木を伐りだしたのは2004年、賛同する人があらわれ「鎮守の森の会」をつくった。 みな稼ぎを終えた初老の男だった。 雨の日と休日以外朝から夕方まで毎日のように伐った。 2年もすると森は明るくなり、野鳥と子どもが戻ってきて観光客がやってきた。

元稲荷古墳

元稲荷古墳

朝から夕方ま毎日竹や木を伐った

朝から夕方ま毎日竹や木を伐った

 室町時代に村が生まれ鎮守の森は寄り合いや祭りの場となった。自冶を育んだ場所であり、わが町のシンボルだった。 戦後地域のことを役所に委ねたことからシンボルではなくなり、シンボルをなくした町はまとまりを欠いて活力をなくした。 コミュニティのシンボルとして復活させ、わが町をよみがえらそうと活動を続けた。
 鎮守の森に野外ステージをつくり、お茶会や子どもたちの竹細工教室を開いた。 地元に芸術系の大学があり共催で鎮守の森の芸術祭を催し、保育園とお火焚きやとんど、自然観察会を催した。

鎮守の森のお茶会

鎮守の森のお茶会

鎮守の守の芸術祭 保育園児も参加

鎮守の守の芸術祭 保育園児も参加

 狂言界の革命児、茂山千之丞さんと出会ったのはそんな時だった。
狂言は室町時代に鎮守の森の祭りで生まれ、生まれたころの狂言を復活しようと「かがり狂言」をはじめた。 酒を飲み大向こうをかける観客にアドリブで答える狂言で、舞台と客席が一体となった。ユニークなことから評判を呼び、関東や九州からも大向こうをかけにやってきた。
 六年間続けたが千之丞さんがお亡くなりになって終えた。

宇治田楽 かがり狂言で上演

宇治田楽 かがり狂言で上演

かがり狂言

かがり狂言

明神さんのお月見
明神さんのお月見

 代わる行事を考えた。竹明かりの行事は全国にある。絵灯篭を並べる行事は越後湯沢の絵灯籠祭りが有名だがあまり例がない。 絵燈籠を描くのは難しく専門家がいる。 描いていただける人を探してつくった。 中秋に神社主催のお月見が催され、400mの参道に200個の絵灯篭が並ぶようになった。毎年増やし全国に知られる行事にしたい。
 参道は尊厳を取り戻し、鎮守の森は人の絶えない森になり、さまざまな催しが行われている。

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