向日神社

所在地 京都府向日市向日町北山

元は二つの神社だった


丘陵は1961年名神高速道路の土を取るために
削られ向日神社が小山になって残った。ここに
二つの社があった。黄色で囲んだ所が元稲荷古墳

 鎮守の森に乙訓座火雷神神社(おとくににいますほのいかづちじんじゃ)と向日神社の二つの社があった。
1221年後鳥羽上皇が鎌倉幕府討伐の兵を挙げて敗れた。承久(じょうきゅう)の乱とも承久の変ともいう。
乙訓座火雷神神社(おとくににいますほのいかづちじんじゃ)の宮司は朝廷側について敗れ京都府福知山市にあった荘園「六人部荘(むとべのしょう)」隠れた。許されて戻ったのは1275年、社殿は荒廃していた。
以後向日神社に併祭して向日神社になる。

古代の都「長岡京」は向日神社を取り囲んで造られた


長岡宮
(資料提供:向日市文化資料館)

 向日神社は京都盆地の南西、乙訓(おとくに)の地にあるこの地の中ほどに南北に延びる丘陵があり、向日神社はその南端にある。 古代この丘は長岡とよばれ、784年この丘を取り囲んで都ができた。「長岡京」である。 都の中心「長岡宮」は向日神社の麓に造られ、東へ200m行ったところに大極殿(たいごくでん)があった。

ご祭神火雷神(ほのいかずちのかみ)は上賀茂神社のご祭神別(わけ)雷神(いかづちのかみ)の親神様


元稲荷古墳

 向日神社は古社である。 祀られている火雷神(ほのいかづちのかみ)が「続日本紀」に登場するのは702年だが、いつの頃からあるのかは分からない。 鎮守の森に3世紀末に造られた元稲荷古墳(もといなりこふん)があり、弥生時代の末に高地性集落があった。 火雷神は上賀茂神社のご祭神別雷神(わけいかづちのかみ)の親神様、賀茂氏はこの地から分かれて賀茂の地に住んだ。 賀茂氏がこの地にやって来たのは5世紀の中ごろ、秦氏も同時期にやって来て継体天皇に与力した。 継体天皇が乙訓の宮を造ったのが518年、火雷神を祀ったのもこのころだろう。 宮司の六人部家(むとべけ)は秦氏の出身とされ95代を数える。

邪馬台国と交流があった


向日神社から五塚原古墳を見る

 もう一柱のご祭神「向日神(むかひのかみ)」は718年この地に遷座した。 500メートル北の五塚原古墳(いつかはらこふん)に祀られていたらしく、この古墳は箸墓古墳(はしはかこふん)の三分の一の相似形で築造年代も近い。 箸墓古墳(はしはかこふん)は卑弥呼(ひみこ)の墓だといわれており、そう考えると向日神は邪馬台国とも交流があった。

中世乙訓の総鎮守になり徳政一揆の結集拠点になった


本殿の覆屋と舞楽殿

 本殿は国の重要文化財で、明治神宮のモデルである。1422年に七つの村が協同して建てたという記録が残る。 丘陵は西の丘とよばれるようになり、村人は「西岡衆(にしのおかしゅう)」とよばれた。 京都の町衆と対峙して徳政一揆を企てたことで歴史に残り、総鎮守だった向日神社が結集拠点になった。

秀吉が朝鮮出兵のため鳥居前に向日町をつくった


向日町ができたころの向日神社
(資料提供:向日市文化資料館)

 鳥居前の西国街道が町場になったのは1591年秀吉が朝鮮出兵のため西国街道を拡幅して町場に定めた。 軍を進めてきた秀吉が鳥居の前で休憩し、「あの森は何というのか」と鎮守の森の名を問うた。 勝山でございますと答えると、縁起の良い名だといって褒美を与え、以後勝山になったという逸話がある。 町の歴史を見続けてきた旅籠「富長屋」が鳥居近くに残る。

幕末 宮司は王制復古に奔走した


冨永屋
(写真提供:向日市文化資料館)


社家

 幕末、国学者六人部是香(むとべよしか)が90代の宮司になる。是香は孝明天皇の家庭教師の立場にあり、王制復古に向けて奔走した。 社家には坂本竜馬など勤皇の志士が出入りしていたといい、隠し部屋があったとの逸話が残る。 王政復古とは天皇を中心とした国家を復活させることであり、祭政一致で、天皇と国家の安泰を祈願する神祇官(じんぎかん)を再興させることだった。 是香は夢半ばで斃れ、3人の息子が夢を継いだ。 長男が新撰組に殺されたのは王政復古の8ヶ月前のことであり次男が亡くなったのは神祇官が設置される半年前だった。三男は岩倉具視の要請で東山道鎮撫隊に加わった。総督と副総督に任命されたのは歳若い岩倉具視の息子2人、2人のお守り役として従軍した。 このときの様子が島崎藤村の「夜明け前」に書かれている。主人公青山半蔵は同じ平田派の国学者だった。 向日神社はさほど有名な神社ではないが歴史の節々に係わる。 その理由は難波から東国に至る国土軸と 大和と日本海とを結ぶ交通軸の交点に位置し ていることと、宮司の六人部家が天皇のお側に仕えた部民であることによる。
 1934年笹部新太郎が向日神社の北に桜の園をつくった。

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