小説「櫻守」


宝塚市武田尾の里山公園には笹部さんが
植えた樹齢100年の山桜の林がある

 弟子として後年は相談相手として笹部新太郎に仕え人に南野三郎がいる。南野は「櫻守」が書かれたいきさつを次のように書いている 「1967年の晩春だったと思います。先生は文芸春秋の薄井恭一氏と作家の水上勉氏を伴って西宮へ来られました。満池谷(まんちだに)の水源地や夙川(しゅくがわ)、甲山(かぶとやま)、着工前の北山ダム等を見て、甲陽園(こうようえん)の播半(はりはん) で数時間にわたって先生の話を聞かれたことがありました。私も浅田氏とともに武田尾(たけだお)の演習林へ案内したことがありました。これが笹部先生をモデルにした小説『櫻守』の発端であり、1967年8月から12月にかけて毎日新聞の夕刊に連載されました。」

 当時笹部は80歳、孤独で気難しい老人だった。当然自分が主人公になると思っており不満を南野にぶつけた。 水上勉は笹部ではなく、笹部に感化され、桜の保護育成に目覚めて行く植木職人北弥吉を主人公にし、弥吉の目を通し日本古来の桜の保存に人生を捧げた笹部新太郎の生涯を描いた。 笹部は竹部庸太郎と名を変え、弥吉の雇い主として登場する。
 弥吉は水上本人ではないだろうか。水上は1919年に大飯原発の町、福井県大飯郡本郷村の宮大工の子として生まれた。 父は家に寄り付かず山間の汁田を耕す母に育てられ祖父は木挽きだった。貧しさから9歳で京都相国寺の塔頭瑞春院の小僧に出される。 弥吉が生まれたのは京都府南丹市鶴ケ岡、水上の生まれ在所の隣である。宮大工の父は家に寄り付かず、小作の母と木挽きの祖父が育てた。 戦争の時代であった。水上は背が低く馬の世話をする兵隊にされ馬の横で寝た。弥吉も背が低く同様である。

桜の園の山桜
花と葉が同時に萌える

桜の園の山桜 木によって花も葉も異なり
お彼岸ころから4月中ごろまでつぎつぎに花をつける


桜の園があったころの向日町の商店街
弥吉の妻 園もこの商店街で買い物をした

 物語は弥吉が祖父に連れられて、村の背山に登るところからはじまる。
 『「弥アよ、山桜が満開や」と祖父がいった。はじめて山桜の名をおぼえた。桜の下へ祖父は木端の大きなのをあつめて、地べたに敷いて弁当を広げた。桜は弥吉の手で抱えきれないほど太く、横縞の肌はみなすべすべしていた。』
弥吉はこの山で祖父と母のただならぬ関係を見、そのことが人生に影を落とす。祖父が死に母は離縁され、新しい母を迎えるがなじめず、実母を思い続ける。


笹部さんに桜の園の土地を紹介した向日町の陶匠
河合卯之助さんの向日窯、吉川英治もやってきた
文化サロンで、笹部さんもメンバーだった
(河合卯之助著窯邊陶話より)

 14歳で京都の植木屋小野甚へ奉公に出され、ここで生涯の友となる橘喜七と出会い、喜七の紹介で竹部のもとで働くことになる。 竹部は武田尾の山で桜を育てていたが、道路も水もなく、桜を育てるには向かないことから、京都郊外向日町に土地を求めた。
 「向日町の小舎は、藪陰にあったが、平地だから武田尾のように暗くはなかった。新京阪の東向町駅から十五分ぐらいの距離である。藪をはずれて東に、町屋が望見でき、西の方に機関銃と飛行機の部品をつくる工場が、屋根にだんだらの迷彩をぬりたくってならんでいた。苗圃は、その工場と竹藪との中間に、細長くのびていて、約三千坪あった。藪開きの丘陵地帯である。 竹部が昭和十年の春、武田尾では不便だし、土地も桜に向いて軽く、水もたれ、旱魃、いずれも憂いがなく、格好の地と思えたから手に入れたもので、畑にすれば、相当の収穫物はとれたかもしれない。竹部はここに、全国からあつめてきた名木の種子を実生させて育てた。武田尾にいくらか接木のものがあったが、ここは数千本の山桜の苗木の園である。」

 武田尾の演習林は武田尾の駅からトンネルを二つ越したところにあった。トンネルで出征兵士を乗せた臨時列車に遭遇し、蒸気機関車の煤を洗うため、武田尾温泉の「まるき」に立ち寄り、ここで仲居の園とめぐり合い結ばれる。 戦争に行き、戦後は喜七と闇屋をしてしのぎ、1948年小野甚に復帰し6年後に独立して京都の鷹峰に家を買った。1961年には職人を雇い、一人息子の槙男は高校生になっていた。 この年の4月、新聞で向日町の桜の園が名神高速道路の犠牲になってなくなることを知る。おどろいた弥吉は竹部と再会し、御母衣ダムに沈む樹齢四百年の江戸彼岸桜の移植を引き受けたと告げられる。依頼主は電源開発公団 総裁の芹沢哲之助、モデルは初代電源開発公団総裁の高崎達之助である。

武田尾の演習林 武庫川沿いに福知山線が通り、
武田尾温泉は上流の山陰にある
(写真提供:宝塚桜守の会)

名神高速道路の犠牲になって桜の園は壊された
(写真提供:向日市文化資料館)

 竹部は苦心の末、この老桜2本の移植を成功させ、弥吉も現地で移植を見守る。2年後に父が死に、弥吉も体調をくずす。翌年の十二月、弥吉は滋賀県海津町にある、清水(しょうず)の桜の墓に埋めてほしいと言い残して亡くなる。毎年手入れをしていた樹齢300年の江戸彼岸桜である。 『櫻守』は1964年、弥吉が清水の桜の墓に埋葬されるところで終わる。 『「私は、まあ、ただすきやから、今日まで桜、桜というて生きてきましたけど、北さんが、なぜこんなに桜が好きやったか・・・・・・そのわけを聞かずじまいに終わりました」竹部の声にうるみが感じられた。園が嗚咽をころして、つづいて、竹部の後から、線香を土につきさす頃だった急に霧雨があがりはじめた。 「晴れるようですな」と和尚が合羽の頭巾をとって息をすって山をみたので、村の人らも、園らも、北の方をみあげた。いつのまに晴れたのか。愛発(あらち)の山を覆っていた霞が、うす絹をはぐようにあがってゆくのであった。山の肌がし ずかに浮いてくる。山はどこも楓や蔦の赤をちりばめており、絵具を散らしたような晩秋であった。園の眼にも、竹部の眼にも、沁みるような山肌が迫った。墓地の大桜が、朱の山を背に黒々と浮きあがる気がした。』 享年48歳、竹部庸太郎のモデル笹部新太郎は77歳になっていた。

高崎辰之助の依頼を受け笹部さんが
移植した樹齢400年の荘川桜
(写真提供:荘川町観光協会)

弥吉の墓があるとされる清水の墓地、
清水の桜は樹齢300年の江戸彼岸桜で
笹部さんが見つけて世に出した
(写真提供:高嶋市)

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