笹部新太郎(1888~1979)

笹部新太郎(写真提供:朝日新聞)
笹部新太郎
(写真提供:朝日新聞)

 ソメイヨシノをけなし続けた人として知られているが、ソメイヨシノのよさを認めていた人でもある。
 樹齢400年の荘川桜を移植した人として知られているが、就職せず、私財を使い日本古来の桜の保存とソメイヨシノに代わる桜の品種改良に生涯をかけた人である。 使った私財は今の貨幣価値で100億円を超えたという。 理解しにくい人であり、一口で言うと「けったいな人」である。
 なぜ理解できない人なのか、その理由は明治20年に大阪で生まれた人であり、源氏の棟梁源頼光(みなもとのよりみつ)の四天王卜部季武(うらべすえたけ)の子孫である。 大阪にはけったいな人が生まれる。 笹部新太郎が生まれたころの大阪は日本一の都市目指して沸き立っていた。 東京帝国大学の法学部に入ると決まった時、入学に反対していた父はこういった「入学は許すが、人に使われ理由もなく頭を下げる仕事にだけは就くな、自分が信じる道を進め、それだけの財産は残してある。」
笹部家は大地主だった。

 18世紀中ごろの大阪は40万の人口があり、ほとんどが町人で役人は2パーセントほどしかいなかった。そのため町人が自冶組織をつくって運営し、独自の文化や学問が発展した。 水の都と呼ばれ多くの橋があったがほとんど町人が架けた橋である。 江戸の人口は100万人、半分は役人で橋は幕府が架けた。 役人にたよらない自主独立の気風が育った。 明治にもこの気風は残り、住友本家が中ノ島図書館を建て株式仲買人の岩本栄之助が中央公会堂を建てた。

天神まつり

天神まつり

中央公会堂

中央公会堂

山桜)
山桜)

 大正の終わりから昭和の始めにかけ面積人口ともに日本一になり大大阪と呼ばれた。 東京帝国大学の法学部を卒業すれば次官や知事は約束されたようなものだが。先祖は源氏の四天王、明治政府の役人なんぞにはなるなとの思いがお父さんにはあった。 この気風は戦前までの大阪にあった。大学に入り何をすべきか考え行き着いたのが桜である。本居宣長が大和心にたとえた「桜」にかけることにした。 東京帝国大学の理学部に桜博士といわれた三好学博士がいた。ドイツから植物生理学、生態学をもたらせた学者で、自然保護を説き天然記念物保護法をつくらせた植物学の権威だった。 笹部新太郎は桜を調べて全国回った。そこには手入れをされず放置された桜と、天然記念物に指定されて玉垣をめぐらされ、新しい根も出ず衰弱している桜があった。 生き物を愛しむどころか生き物であることを忘れた人の姿があった。 ドイツと日本では風土が異なり文化が異なる。明治期に導入した西洋文化は人間中心の文化で自然も機械と考えた。 文明開化の名の下に日本文化が捨てられていた。

適塾と緒方洪庵
適塾と緒方洪庵

 三好博士と対峙した。大阪には町人学者の伝統があった。緒方洪庵は種痘やコレラ治療に貢献した医者だが、大阪大学医学部の母体になった「適塾」をつくり、大村益次郎や福沢諭吉など明治を牽引した人材を育てた。 町人学者は幅広く多様な知識を身につけて真実を求め、細分化され専門化した今の学者の対極にあった。 研究室に閉じこもるのではなく桜の苗圃をつくって桜を育て、野鳥や巣箱の研究、接木に使う小刀の研究もした。 桜の研究に必要な資料の収拾にも力を注ぎ、和本約2500冊、洋本約1200冊、書画400点、工芸品約1000点、その他多くの自筆の記録や雑誌、新聞の切り抜きを集めた日本一のコレクションが残る。 文学や芸能にも造詣が深く当時の大阪を代表する文化人だった。

 ソメイヨシノは東京都の花で江戸の末、江戸郊外の染井村(東京都豊島区)で生まれた。 江戸文化が育てた桜である。 18世紀の末、文化文政のころ江戸文化が興った。それまでの上方文化を雅とすれば江戸文化は派手である。上方では文楽が好まれ、江戸では歌舞伎が好まれ、花だけがぱっと咲いてさっと散る華美で派手な桜が好まれた。 エドヒガンとオオシマザクラが出合ってソメイヨシノが生まれる。 ほとんどの桜は花と葉が同時につくがエドヒガンは花が散ったあとに葉がつき、オオシマザクラは花が大きく白くて香りがある。

ソメイヨシノ

ソメイヨシノ

ソメイヨシノ

ソメイヨシノ

 笹部新太郎はソメイヨシノのよさを認めていたのではないだろうか。 「よい桜の条件は、成長が早く、丈夫で、花付がよく。大きくなり、気品がある」といった。 ソメイヨシノにも当てはまる。 「ソメイヨシノは花の前後がみすぼらしいとけなし気品がない」といった。 気品は文化の違いであり好みの違いである。 ソメイヨシノは関東以北の桜で高温多湿で粘土質の関西には合わない。生育が悪く花の色も関東に比べると劣る。 ソメイヨシノは三好博士が推奨し、国も薦めたことから中央集権化とともに全国に広がった。 笹部新太郎はソメイヨシノに席巻されて日本各地の桜がなくなってゆくことを憂え、日本古来の桜の保存とソメイヨシノに代わる桜 の品種改良に生涯をかけた。その場所が京都向日町の桜の園である。 全国から名木の種と接ぎ木に使う穂木を集め、園丁を雇って育てた。その数は数万本、全国の桜の名所に送った。 上方には咲いたときだけでなくその前後や紅葉も楽しみ冬枯れをも愛でる文化があった。

エドヒガン

エドヒガン

オオシマザクラ

オオシマザクラ

ササベザクラ

ササベザクラ

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