よみがえる桜の園

 「この森の向こうに桜の園があった」と顔見知りの学者がいった。
暗い森が向日神社から続いていた。笹部新太郎の名前を知ったのは2004年の秋である。
 1961年4月毎日新聞は「桜の園へ時代のアラシ名神高速道路の犠牲に」と見出しをつけて次のような記事を載せた。
 「日本一の桜の園が名神高速道路建設用の土砂採取地に買い上げられ、非情のブルドーザーに踏みにじられようとしている。この桜の園は桜の研究で知られる笹部新太郎さん(74)が京都府向日町に日本各地の桜を植えて作ったいわば桜を守るためのトリデ、それが数百本の桜とともにことし限り消えようという話には、滅び行く桜の運命を嘆く人たちの愛惜が集まっている」

この森のむこうに桜の園があった

この森のむこうに桜の園があった

桜の園は半世紀前に壊されていた(写真提供:向日市文化資料館)

桜の園は半世紀前に壊されていた
(写真提供:向日市文化資料館)

荘川桜(写真提供:荘川町観光協会)
荘川桜(写真提供:荘川町観光協会)

 同じ年の5月毎日新聞は『御母衣(みほろ)ダム沈む村のかたみにサクラ』の見出しをつけた記事を載せた。
 この年、笹部新太郎が移植した荘川桜(しょうかわざくら)が芽吹いた。依頼したのは経済企画庁長官や通産大臣を歴任した高崎達之助。高碕は御母衣ダムに沈む樹齢四百年の桜を移植したいと思った。御母衣ダムは高崎が電源開発公社の初代総裁として1952年に計画したダムである。
 平家落人伝説のある荘川村の歴史は古く、激しい反対運動が起きた。それを乗り越えて注水が始まろうとしていた時、桜のあることに気づいた。村の歴史ともいうべきこの桜を残したい。相談するが誰もが不可能だといい、たどりついたのが笹部新太郎だった。
 1968年、水上勉は二つの出来事をモチーフに『櫻守』を書いた。 笹部新太郎がモデルである。
半世紀が過ぎ、荘川桜は日本中から観光客を集める桜の名所になったが、桜の園のあったことは忘れられ、跡地に出来た京都府の団地には記念碑もなく知る人もなかった。まっ暗な森に痴漢注意の看板が立っていた。

 桜の園があったことを知った初老の二人はよみがえらそうと、持ち主京都府の許可を得て生い茂った木や竹を伐った。 山桜が人知れず育っていた。光を受けて花をつけ、二人は憑かれたように木や竹を伐り山桜を紡ぎだした。
一人加わり二人加わり参加する者が増えた。 みな稼ぎを終えた男だった。応援する女もあらわれ活動は雨の日と休日以外朝から夕方まで続いた。

繁茂していた木や竹を伐った

繁茂していた木や竹を伐った

間伐材で土留めをつくった

間伐材で土留めをつくった

よみがえった桜の園 団地を取り囲んで続く
よみがえった桜の園 団地を取り囲んで続く

 2013年、京都府の緑地には紡ぎだした山桜80本と荘川桜など笹部さんゆかりの桜20種80本がある。そして伐った木や竹は5000本を越えた。 下草を刈らないと10年で暗い森に戻る。年3回下草を刈り施肥、薬剤散布、灌水、除草。そして道路の清掃。団地の住民も加わり、作業は毎日のようにつづく。 向日神社にも笹部さんゆかりの桜があり、桜の径は800メートル続いている。

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