「桜守」その後

ササベザクラと笹部新太郎(写真提供:朝日新聞社)
ササベザクラと笹部新太郎
(写真提供:朝日新聞社)

 寄付してもらえるとの思惑もあり、役所・民間を問わず、桜を植える話が笹部さんに舞い込んだ。名所にしようと送りだした桜は数万本になったがほとんど残っていない。人生をかけた日本古来の桜を守る戦いは無に帰し、子どももなく、妻に先立たれ寂しい晩年だった。
 神さまが哀れんだのか、これまでの集大成のような桜が花を付ける。大阪から神戸の岡本に居を移した1960年、持ち運んだ種が庭に落ち芽生えた。成長が早く半八重の気品のある花で、5年で花をつけたことから笹部さんは五歳桜と名づけ、近所の人は新太郎桜と名づけた。
10年もすると2階の窓から花見ができるようになり、成長の邪魔になるようなら家を取り壊してほしいと笹部さんは思った。


ササベザクラ

 1967年、水上勉が毎日新聞に笹部さんをモデルに『櫻守』を連載し、1976年にはNHKが放映した。 1978年8月、西宮市助役の南野三郎さんに笹部家のことと五歳桜のことを託す。南野さんのメモには「邸内の実生の桜は自分の桜の集大成であり、笹部桜と命名する」「くされ縁で西宮市に渡す」と書かれていた。 笹部さんは桜の研究に必要な資料の収集にも力を注ぎ、和本約2500冊、洋本約2000冊、書画400点、工芸品など約1000点、その他多くの自筆の記録や雑誌・新聞を含む日本一の桜コレクションがあった。 この年12月、91年の生涯を閉じ、笹部桜と自宅、武田尾の演習林、日本一の桜コレクションが残り、新しい物語がはじまる。
 「人間、死んでしまうと、なあんも残らしまへ ん。灰になるか、土になるかして、この世に何ものこしません。けど、いまわたしは、気づいたことがおす。人間は何も残さんで死ぬように見えても、実は一つだけ残すもんがあります。それは徳ですなあ・・・・・・人間が死んで、その瞬間から徳がいきはじめます。」
『櫻守』の一文である。 笹部さんの思いに感化され共感した人たちが動きはじめた。次の世代に笹部さんのことを伝えようと1996年に、木村清弘さんが『櫻はおれの命だ~櫻博士笹部新太郎の遺したもの~』を書いた。これからの物語はこの本を参考に紡いでゆく。


西宮市越水浄水場の桜
桜の園の桜はここに移された
(写真提供:西宮市)

南野さんが笹部さんと出会ったのは1950年、南野さんは西宮市の水道課の職員だった。越水浄水場の桜を案内したのが縁で、弟子になり相談相手になった。笹部さんは向日町の桜の園や武田尾の演習林から山桜を移植し、里桜を植えて浄水場を桜の名所にした。そして相談役として西宮市との縁が続いた。 笹部さんが移り住んだ岡本は小林一三が阪神間で最初に郊外住宅を造ったところである。谷崎潤一郎が住み、阪神間モダニズム文化が花開いた場所で、地域を愛し地域のために尽くすという気風が色濃く残っていた。

 笹部さんの遺産は遠い親戚の人が引継ぎ、家は処分される。後を託された人たちは笹部桜を残すことに奔走した。神戸市に買ってもらって公園にしようと、笹部邸に近い岡本商店街の会長や副会長が動いた。南野さんは親戚との交渉を受け持ち、1981年神戸市の公園になった。住民は桜守公園と呼び桜守の会をつくって観桜会を催している。笹部桜が満開の公園は招待客であふれ、笹部さんの人生を紙芝居で紹介し、日本舞踊や南京玉簾などの芸能でもてなす。近くにある甲南大学の学生がお茶席を開き、子どもたちがお菓子を配る地域あげての観桜会になった。

桜守公園の入り口

桜守公園の入り口

桜守森公園の観桜会<

桜守森公園の観桜会

南京玉簾を見る子どもたち

南京玉簾を見る子どもたち

子どもたちがお菓子を配る

 弟子の久野友博さんは笹部桜を増やし全国に広げることに奔走した。庭で笹部桜を育て笹部さんが係わった造幣局や皇居にも送った。その数は千本を越え、笹部桜は全国に広がった。1985年、笹部桜が新品種と認められ、正式に笹部桜と命名される。二年後神戸市は桜守公園の笹部桜を市の木に指定し、兵庫県が天然記念物に指定した。樹齢三十年に満たない木を指定した前例はない。


白鹿記念酒造博物館
(写真提供:白鹿記念酒造博物館)

 日本一の桜のコレクションはどうなったのだろう。西宮市には保管し展示する場所はなかった。地元の酒造会社が酒の博物館をつくる計画があり、白鹿記念酒造博物館で常時展示され、桜の季節に特別展が催されている。
 桜守公園の南側にマンションが計画された。日陰になると笹部桜が枯れる。住民は署名活動をはじめ、公園にしようと不動産会社と神戸市に陳情を繰り返した。バブルで地価が高騰しており、不動産会社は計画をあきらめない。笹部桜の重要性、住民がいかに愛着を持っているかを訴え、1992年に神戸市が買い取り公園になった。 

 武田尾の演習林はどうなったのだろう。相続した親戚の持ち物になっていた。南野さんは公園にして残したいと宝塚市や持ち主との交渉を続け、市民も残そうと立ち上がった。兵庫県には武庫川から円山川まで、瀬戸内海と日本海を桜で結ぶ「ふるさと桜堤回廊計画」があり、宝塚市はここを中核の公園に位置づけた。
 1995年に大震災が起こり、整備の目途がつかなくなる。問題は整備費の捻出と、どのように管理し運営してゆくかにあり、市民に委ねられないかを模索した。翌年、主要部を宝塚市が買い取って残りを持ち主が寄付。2000年、兵庫県が整備して四十万平方メートルの里山公園 がオープンした。

武田尾の演習林(写真提供:宝塚桜守の会)

武田尾の演習林
(写真提供:宝塚桜守の会)

武田尾の演習林

武田尾の演習林

 オープンと同時に「宝塚桜守の会」が結成され、三百人を越す市民が集まって管理と運営をはじめた。小説『櫻守』で弥吉と園が初夜を過ごした番小屋も復元され、道具の置き場になった。新線ができて福知山線は廃線になり、武田尾の駅から二つトンネルを越えると里山公園に出る。 『櫻守』の世界にひたれるハイキングコースとして人気があり、年中賑わうが、春と秋にはハイカーの行列ができる。人通りと雨で山道はいたみ、木は生い茂り、台風になると木は倒れる。会員は手入れをしてハイカーを迎え、笹部さんの思いを伝え、人から人へ笹部さんの思いは伝わってゆく。人間が死んで、その瞬間から徳がいきはじめた。
 鎮守の森の会が桜の園をよみがえらせる活動をはじめたのは2006年のことである。

ハイキングコースのトンネル(写真提供:宝塚桜守の会)

ハイキングコースのトンネル
(写真提供:宝塚桜守の会)

宝塚桜守の会の活動(写真提供:宝塚桜守の会)

宝塚桜守の会の活動
(写真提供:宝塚桜守の会)

pagetop