桜物語

  • 笹部さんゆかりの桜がある向日神社と桜の園 この800メートル続く桜の径に20種の桜がありそれぞれに物語があります。その物語をご覧ください。 鎮守の森の会

  • 桜の種類

     桜は分類学でバラ科サクラ属に属しています。梅や桃や李もサクラ属で、日本ではサクラ亜属として分類している学者もいます。 桜の原産地はヒマラヤの温帯地域で、そこから北半球に広がったと言う説があります。 野生種と園芸品種に分けられ園芸品種を里桜とよびます。分類には諸説ありますが、原種の主なものにヤマザクラ、エドヒガンザクラ、マメザクラ、チョウジザクラ、ミヤマザクラ、カンヒザクラがあります。 園芸品種は人為的に交配してつくった桜ですが、オオシ マザクラの遺伝子を持つものが八割を占めています。

  • 笹部桜(ささべざくら)

     笹部さんの晩年は子どももなく、妻に先立たれ寂しいものでした。神さまが哀れんだのか、これまでの集大成のような桜が花を付けます。 大阪から神戸の岡本に居を移した昭和35年、持ち運んだ種が庭に落ちたのです。成長が早く半八重の気品のある花で、5年で花をつけたことから笹部さんは五歳桜と名づけ、近所の人は新太郎桜と名づけました。 10年もすると二階の窓から花見ができるようになり、成長の邪魔になるようなら家を取り壊してほしいと笹部さんは思いました。笹部さんはこの桜の成長を楽しみに生きたのです。 昭和53年笹部さんが亡くなり、後を託された人たちは笹部桜を残すことに奔走しました。昭和56年、笹部邸は神戸市が買い取って公園になり、60年、笹部桜が新品種と認められ、正式に笹部桜と命名されます。神戸市は桜守公園の笹部桜を市の木に指定し、兵庫県が天然記念物に指定しました。樹齢30年に満たない木を指定した前例はありません。 4月上旬開花

  • 楊貴妃(ようきひ)

     「櫻守」では主人公弥吉が園と結ばれ、宝塚にある演習林の番小屋で初夜を迎えます。番小屋は滝の側にあり、楊貴妃が咲いていました。その一節です。 『弥吉は夢中になって園の頬を吸った。自分の身体と、園の身体がいっしょに滝壺へ落ちてゆくような、生涯忘れられない記憶になった。園の瞼と耳に、朱をさしたように血がのぼった。弥吉が腕をはなして、畳に眼をやると、乱れ髪がながれて、楊貴妃の花弁が一つ、小貝をつけたようについていた。弥吉はうっとりとそれを眺めた。』 演習林は平成9年宝塚市が買い取り12年に兵庫県が整備して里山公園になりました。新線ができて福知山線は廃線になり、遊歩道が出来て武田尾の駅から二つトンネルを越えると里山公園です。「櫻守」の世界にひたれるハイキングコースとして人気があり、年中賑わいますが、春と秋にはハイカーの行列ができます。 番小屋も復元されていますが、滝も楊貴妃もありません。水上勉が滝と楊貴妃を加えました。 4月中旬開花

  • 山桜(やまざくら)

     水上勉は笹部さんではなく、笹部さんに感化され、桜の保護育成に目覚めて行く植木職人北弥吉を主人公にします。「櫻守」は弥吉の目を通して、日本古来の桜の保存に人生を捧げた笹部さんの生涯を描いています。 物語は弥吉が祖父に連れられて、村の背山に登るところからはじまります。 『「弥アよ、山桜が満開や」と祖父がいった。はじめて山桜の名をおぼえた。桜の下へ祖父は木端の大きなのをあつめて、地べたに敷いて弁当を広げた。 桜は弥吉の手で抱えきれないほど太く、横縞の肌はみなすべすべしていた。どの木も赤みをおびた新緑が出て、花はその新緑の付け根のあたりに付き、細枝がたわむほど重なっている。桃色のもあり、純白にちかい空の透けて見えるようなうすいものもあった。』 山桜は花と葉が同時に萌える桜です。それぞれ花の色と葉の色が異なり咲く時期も異なります。桜の園では80本ばかりの山桜があり、お彼岸頃から4月中ごろまでつぎつぎに花をつけます。

  • 荘川桜(しょうかわざくら)

     桜の園が壊された昭和36年、笹部さんが移植した荘川桜が芽吹きました。依頼したのは経済企画庁長官や通産大臣を歴任した高崎達之助さんです。 高碕さんは御母衣ダムに沈む樹齢400年の江戸彼岸桜を移植したいと思いました。御母衣ダムは高崎さんが電源開発公社の初代総裁として昭和27年に計画したダムで、平家落人伝説のある荘川村の歴史は古く、激しい反対運動が起こりました。 それを乗り越えて注水が始まろうとしていた時、大きな桜のあることに気付きました。村の歴史ともいうべきこの桜を残したい。相談するが誰もが不可能だといい、たどりついたのが笹部さんです。 江戸彼岸桜が芽吹いた3年後、高崎さんから笹部さんへ一通の手紙が届きます。あの桜の愛称を決めておきたいと書いてあり、それが絶筆になりました。享年79歳。 地名にちなみ「荘川桜」と名づけられました。 お彼岸ころに開花

  • 普賢像(ふげんぞう)

     普賢像は「桜守」に登場する桜です。 弥吉は昭和23年北白川に移転する料亭の庭造りに加わります。占領軍関係や民間バイヤーの招宴に使う料亭で、外人好みの庭というのが目的らしく、花樹の賑やかさと、石組みの豪華さであっと言わせる趣向の庭でした。 東京から来た28歳の若い設計者が職人を指示し、庭の常識を欠く所があって昔かたぎの職人とよく衝突しました。 『普賢像は弥吉の好きな桜の一つで、これも竹部からの知恵だったが、上京区の千本閻魔堂にある一本は見事である。だいいち花が変わっている。下向きにうつむいて咲くのが特徴だが、数多い花弁の中から二つの変わり葉が出て、それが普賢菩薩が乗った象の目に似ているといわれる。設計者はこの花の姿を知らない。 弥吉なら、池の手前に植えて、庭先から手のとどくあたりへ、一本孤立させて植えるだろう。すればうしろの込んだ常緑樹の茂みで花は浮きたつのである。花の観賞も、遠い大観を愛でるのが一法だけれど、普賢像など、近くで掌にのせて観賞するのもまた楽しい。』 4月下旬開花

  • 薄墨桜(うすずみざくら)

     薄墨桜は江戸彼岸桜で「桜守」にも登場します。竹部は笹部さんがモデルです。 『岐阜から約十里ばかり、北西に入った根尾谷にぽつんとある巨桜は、全国第二位といわれる太さのもので、幹周三九尺,枝張り東西十七間、南北二十八間の巨桜である。年数もたち、甚だしい腐朽振りだが、損傷が少ないのと、枝張り、花やかな点からいって、山形県巨摩郡下実相寺にある神代桜を負かす、と竹部は観ていた。』 『宮崎から。巨桜を中心に山の段畑一円を桜の園にしたいから、山桜の苗を分けてくれないか云ってきた.気がすすまなかった。あれだけの巨桜があるのに、ちかくをゴミゴミした苗木でよごすことはあるまい。苗木を惜しむわけではないが、といった意味の返事を書いてやると、宮崎はどうしても送ってくれといってきた。竹部は向日町の苗圃から、五年から七年苗の五百本を汽車便で送った。』 お彼岸ごろに開花

  • 白雪(しらゆき)

     子どものころに遊んだ向日神社の鎮守の森は赤松と桜の明るい森でした。半世紀が過ぎて暗い森になり、桜の名所だった参道にも竹や笹が侵入し、近くにある競輪場の駐車場になっていました。これを憂えて『鎮守の森の会』をつくり、元の森に戻す活動をはじめた平成16年の冬のことです。 本殿の西で電線に倒れ掛かった桜を見つけました。枯れかかっており伐りましょうかと宮司さんに相談すると生かしてやりましょうといわれ、楠から番線で引っ張って起こしました。春になるとソメイヨシノの倍はあろうかと思われる一重で真っ白な花が咲きました。桜の園から移された桜だと思われますが、向日神社の参道や境内にはこのような桜が10本近くあります。 ソメイヨシノが生まれた江戸時代の末、大名屋敷や寺院に250種近くの桜がありましたが、明治になると桜は育てる人がいなくなり、放置されて伐られなくなってゆきました。東京駒込の植木職人高木孫衛門はこれを惜しみ、庭に運んで育てました。白雪もその中の一つです。 4月中旬開花

  • 陽光(ようこう)

     「日本は神の国、戦争に負けるはずが無い、立派に戦って帰って来い」。と送り出した生徒が戦地に散りました。国民学校で農業を指導していた高岡正明さんは、戦死した生徒の供養と世界平和を願い、四半世紀の試行錯誤の後、桜の新品種陽光を創ります。 高岡さんは世界中に陽光を送り続けました。出費は年百万を超えました。  長男の高岡照海さんは無料で送り続ける父に反発して「こんなことをしていたら、家がだめになる。やめてくれ。」と迫りました。「たのむからやらしてくれ、教え子の供養をしたいんだ。」と目に涙を浮べ懇願したといいます。 桜の寄贈は平成13年正明さんが92歳で亡くなるまで続きました。そして今、照海さんご夫妻は父の意志を継ぎ寄贈を続けています。  陽光は台湾緋桜と天城吉野の交配種です。 3月下旬開花

  • 河津桜(かわずざくら)

     河津桜は本州で最初に咲くピンクの桜です。 昭和30年頃の話です。河津町に住む飯田勝美さんは1mほどの桜の若木を見つけました。家に持ち帰り庭先に植えて10年後、やっと花をつけましたが飯田さんは花を見ることは出来ませんでした。  この家の屋号から「小峰桜」と呼ばれ親しまれていましたが、その後の調査で新種の桜とわかり、昭和49年「河津桜」と命名されました。大島桜系と寒緋桜系の桜が自然に交配して生まれた桜です。 河津町は伊豆の下田市の隣町ですが、8,000本の桜が植えられ、河津桜まつりが催され毎年100万人の観光客が集まります。 気温に敏感な桜で開花予想が難しく、早い時にはお正月から開花する場合もあり、遅い時は2月中旬に開花が始まるなど、かなりワガママ桜で、ツアー観光客泣かせの桜でもあります。 3月下旬開花

  • 醍醐三宝院の枝垂桜(だいごさんぼういんのしだれざくら)

     醍醐寺は平安時代から「花の醍醐」とよばれる桜の名所でした。応仁の乱のあと荒れ果てましたが秀吉の庇護を受けて復興します。1597年朝鮮への侵略は泥沼に落ちいっていました。死期を悟った秀吉は醍醐寺で花見の宴を催すことを思いつきます。 丸一年かけて寺を修理し三宝院の建物と庭をつくらせます。広大 な醍醐寺の敷地にさまざまの趣向を凝らせた茶室をつくり、近畿一円から集めた桜700本を植えさせました。 秀吉が花見の宴に引き連れたのは、子どもの秀頼、正室の北政所、淀殿など多くの側室をはじめ諸大名とその家臣など総勢約千三百名。大勢の女房衆に仮装行列を行わせ、高級な着物をまとった女房衆は三度お色直しをして美しさを競いました。 秀吉は半年後に亡くなります。 三宝院の枝垂桜もこのとき植えられましたが、いまの桜は江戸時代の末に植えられたものです。樹齢150年と言われ、奥村土牛(おくむらとぎゅう)が昭和47年に画いた「醍醐」のモチーフになったことから、「土牛の桜」とよばれ、平成9年に切手になりました。 4月上旬開花

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